マーフィ



「あ、」

唐突に、骨々しく蒼い人差し指を向けた先にあるのは、銀色で縁取られた細身の眼鏡。

「ユーリ、眼、悪かったっけ?」
「……視力の低下を抑える為に」
「流石の吸血鬼様も歳には勝てないんだねぇ」

けらけらと一人笑う僕を余所に、彼は再び読書に耽ろうと銀縁眼鏡をその綺麗な指で気障に押し上げる。
しかし当然乍ら彼が本と二人きりの時間に没頭し始めると、
傍らで手持ち無沙汰の僕は退屈窮まり無い状況に追いやられる訳で。

「何読んでるの」
「マーフィの法則」
「ごめん解んない」
「だろうな」

会話終了。

(つまらない…)

子供の様に口先を尖らせてむくれるも、文字通りこちらに目もくれない彼は
何のリアクションもしめしてはくれなかった。
暇を持てに持て余す僕は仕方無しに標的を狗の方へ切り替える。

「狗君狗君」
「狗じゃねぇです」
「お決まりの切り返しを有難う。暇なんだ。構ってよ」
「偶には仕事したら如何ですか」
「子供の仕事は遊ぶことと食べることだって読んだよ」
「アンタ今年で幾つですか」
「………さぁ?ユーリより少ないことは確かなんだけども。
というか、僕、両手両足の指以上の数数えらんないんだよね」
「さいですか」

見事にスルーして狗は、花瓶の水を換えようと伸ばした手を、はたと静止させた。

「………………今何て云いました?」
「は?」
「というか、の後」
「僕、両手両足の指以上の数数えらんないんだよね?」
「……………」
「それが何か?」

長めの前髪に隠された目を驚愕にかっ開いて絶句する狗に、
ユーリが本から視線を逸らすこと無く言い放つ。

「あぁ、アッシュ。この子一足す一解らないから」
「マジですか。え、ちょ、マジですか」

二回云った。素晴らしい同様っぷりだ。
同様させた当のユーリはと云えば既に再び本の虫と化している。

「スマイル…?」
「あはははは、ユーリも何で暴露しちゃうかなぁ」
「…マジですか」

三回目だった。

「僕は哲学を愛する文学少年なのだよ、狗君。
そして哲学愛者の僕の思考回路から云わせて戴くなら、
一足す一なんて、そもそも足すと云う行為なんて、有り得ないんだよ。
例えば狗一匹足す狗一匹。これ則ち解無し。
一物質はあくまで一物質であり、足し引き出来るものではない。
強いて解答を導くなら、それは一が二つ、だ。それ以上でもそれ以下でも無い」
「……はぁ」
「因みに先の補足として云うなれば、僕としては二十以上の数は平々凡々に暮らしている内は
それ程必要だとは思えないから、知ろうとしてないだけだから」
「………もういいです。アンタが偏った秀才且つ莫迦だってことは良く解りましたから」
「うふふ、ご理解有難う」

狗は深い溜息と共にリビングの清掃を再開する。

「あ、ねぇユーリ」
「……何だ」

読書中でも一応返答をしてくれる辺りに、僕はささやかな愛を感じざるを得なかった。
というのは単なる自意識過剰なのだろうが。

「マーフィの法則ってなぁに?」
「…傘を持たないで出掛けると雨に降られる。傘を持って出掛けると降らない。
てっきりお前なら読んだと思っていたが」
「へぇ、良く解んないけどまぁ、じゃあ愛読家として借りようか知らん」
「読み終わったらな」
「はいはい」

機嫌良くニヤニヤと笑う僕の横顔を、溜息混じりに盗み見る狗を尻目に
僕は読書に耽るユーリに寄りかかって転寝を決め込んだのだった。



fin.




奏咲様のリクエストで書かせて頂きました。
どう見てもリクエストに沿えてません。
申し訳無さでいっぱいですが受け取ってやって下さると幸いです。