あぶら




唇から血が出た。
長時間湿度の極めて低い環境に置かれた薄皮に、亀裂が入ったのだ。
舐めれば無論、甘美な鉄のお味。

「唇、血出てる」
「知ってるよ」
「噛んだのか?」
「否、自然に。乾燥、してるんでしょう」

血よりは紅くない下で以て、下より紅い唇を舐め回す。
血漿体が足りていないのか、血は止まることを知らず、流れ続ける。

「ユーリ、血、止まんないや。どうしよう?」
「ん、嗚呼、良い方法を知っている」
「教えて!」

過去に酷い貧血で倒れた記憶が蘇って、僕は半ば縋り付く様な思いで彼に尋ねた。
(そして過去のそれが、彼の所為で起こった事件であることを、都合良くも僕は忘却していた)

「全身の血を絞り取れば、止まるよ」

ほら見ろ。

所詮は、脳味噌に苔を生やした老害の仰ること。
当てにした僕が僕が悪う御座いました。




(畜生、金輪際信用してやるもの、か)

漸く瘡蓋に堰き止められた傷口に軟膏代りにリップクリームを薬指で塗ったくって
ふと見下ろした自分の手を一撫で。かさかさ。
どうやら乾燥の被害を被ったのはデリケートな唇だけでは無かったようだ。
然し、はて、

(ハンドクリーム何処に仕舞った、っけ)

ついこの間使ったような気もするが、そのついこの間、が十年以上前である可能性も有る。
昨日か、はたまた彼が長過ぎる眠りから目醒める前か。
(そもそも後者のような時代にハンドクリームなるものが存在したのかすら危うい)


「ハンドクリーム?」
「うん。知らない?」

結局、舌の根も乾かぬ内に尋ねた相手は彼だった。
城中を管理している狗畜生は、生憎城下へ出掛けていた。
とすると、他に会話できる生命体は、残念ながら彼しかいない。

「知っているよ」
「教えて!」

デジャーヴュー?否、そんな不確かなものでは無い。其れは数分前の記憶。
厭な予感は当たる為に在る。
これは最早、僕等の日常茶飯に適応される座右の銘。

「そこの、ベッドサイドの一番下」

思わず舐めたくなる程に紅い赤い爪が指差したのは、アンティック調の、足付き三段。
一番下、と云われるがままに引いた中、には
(嗚呼恐らくはこの時点で彼を存分に疑うべきであったのだろう。
疑わぬ余地など、無いかった、のに!)

「…鳥渡、ユーリ?」
「うん?有ったろう、クリーム」

ええ、有りました。有りましたとも城主様。
でもね、城主様

「これは手を潤すものじゃあ無くて、ナカを潤すもの、だよ」
「一緒だろう。皮膚を潤す為の油、なのだから」
「表皮と粘膜じゃあ大違いです」
「じゃあ地下の倉庫にプロセンチュアルあるから」


ここまで来ると、変態蝙蝠を当てには出来ない。例え曲りなりにも体を委ねている相手とて、だ。
変態!と腹の底から叫びたい衝動をギリギリで押さえ付けて僕は携帯電話を手に取った。

「追加品目:ハンドクリーム。宜しく」



















「…鳥渡、狗君?」
「はい?」
「此れ何処で買ったの?」
「ユーリの行きつけのお店ですけど」







変態の魔窟へようこ、そ

(畜生こんなバンド脱退してやろうか)







fin.