夕風
目を開けて、其処に入ってくる視覚情報を
脳内で咀嚼して、理解する。
寝起きである僕の脳は、通常より若干ゆっくりと其れを行う。
どうやら、此処は僕の部屋ではないようだった。
否、僕の部屋などそもそも無く、あくまで僕に当てられた部屋なのだが。
さて、では僕のでなければ、一体誰の部屋だというのか。
情報と記憶を照らし合わせた。
家具、丁度、空気。皆、見覚えがあった。
あぁ、彼の部屋だ。と、唐突に気がつく。
未だ朦朧とする頭と自我を半ば強引に起動させ、
重たい体躯を起立させる。
と、床に黒い外套が落ちた。
恐らく彼が、眠ってしまった僕に掛けてくれたのだろう。
相変わらず、気配りの耐えない人だ。
一人苦笑を零して、そっと畳んだ其れを
先程まで眠っていたソファに置く。
彼は、何処だろう
別に、此処で待っていれば、何れ会えるのだろうが、
何となく、訳も無く、彼を探そうと思った。
長い長い年月を経て古びた回廊を、
ゆっくりと、踏みしめるように歩く。
中庭に面した窓から、緋色の西日が差し込み
年老いた屋敷内を照らしていた。
閉じかけの図書館のようなこの空間が
僕は好きだ、と思った。
そうだ、彼を探さなくては
義務でも何でもなく、本能として、そう感じた。
本能と云っても、特に、彼が命の危機に瀕しているだとか
そういうものではなくて、単に
そうしなくてはいけない気がしただけだ。
無意識のうちに止まっていた足を、進める。
きし、と時折鳴る床板の上を、愛しむ様に踏みしめる。
「あ」
黒い影が、視界に入った。
窓の外、中庭の真ん中に。
「ジズ」
窓を開け呼びかけると、彼はおや、という風に
顔を上げ、此方に微笑んだ。
僕は、其の窓から身を乗り出し、
宙に体を落とした。
普通の、というか地球上の殆どの物体がこれをすれば、
ひとたまりも無いことになるのだろうが
万有引力に逆らうことが可能な僕の体は
微塵も衝撃を受けることなく、中庭の草地の上に
音も無く着陸することが出来た。
「何を、していたの?」
何気なく訊ねると、彼は少しだけ困惑したような顔になった。
「・・・何を、と云われましても、何もしていなかったのですが」
自嘲気味に云う。
「強いて言うなら、佇んでいた、とでも云いましょうか」
「其れって、要するにぼうっとしていた訳か」
僕に言葉に、彼は「そうですね」と笑った。
それは、含みも何も無い、真っ白な笑いだった。
少し冷えた空気が、鼻腔を擽った。
大分、日が傾いてきたようだ。
春は近いはずなのに未だ冷たい風が白衣の裾を弄ぶ。
ふと、彼が外套を着ていないことに気付く。
先刻部屋に置いてきたのだから、当然と云えば当然だろう。
しかし、いくら幽霊とは云えど、冷気は余り体に良いとは思えない。
そう思っていた矢先、虚空を見上げていた彼が
微かに身震いした。
「っ、ウォーカー?」
ばさ、っと、彼の方に白衣を被せると
些か驚いたような声が上がった。
「冷えるから」
その侭、其の華奢な体躯を後ろから抱き込んだ。
きょとん、としていた彼が、笑いを洩らす。
「何が可笑しいのさ」
「ふふ。いえ、何も」
「何も無いのに笑う訳無いだろ」
「そうですか」
「そうだよ」
僕の腕の中で、彼は嬉しそうに笑った。
つられて、僕も顔が綻ぶ。
そうやって、日が西の地平線の向こうにすっかり消えてしまうまで
僕たちは他愛も無いお喋りをしていた。
fin.