不確か、な




「愛情表現において、唇は重要な部位だ」

土星頭の哲学者は云う。
唇のない哲学者が云う。

「例えば額。例えば頬。首筋。手。唇。エトセトラ、エトセトラ。
各々の部位への口付けには、各々の愛的意味が込められている。そうは思わないかい?」

白衣の哲学者は突如として問う。
喪に服した様な鴉色の哲学者に問う。
しかし鴉色の哲学者はその薄い唇(それは軽く紫のルージュが引かれていた)を開く事無く、
弓なりに象って笑うだけだった。
土星頭は続ける。

「だがしかし僕は種族上の関係で唇を持たない形状だ。無論口付けは出来る。
愛し合うことも当然。では、唇の無い愛情表現で、果たして君に愛は伝わっているのだろうか?」

恐らく、彼は不安なのだろう。
と、鴉色は言霊を生むこと無く思案する。
私に愛されているか不安なのだ。自分が私を愛している故の不安だ。
滑稽だ。しかしそれは、愛されてる者だけが感じる、杞憂だ。

「莫迦ですね」
「ばっ…」
「莫迦です」

ふと、鴉色が虚空に融けて掻き消えた。
瞬きをしたら、鴉色は白衣の腰掛けるソファの隣に忽然と座っていた。
些か驚きを隠し切れていない白衣の彼に、未だ少し向こう側が透けて見える鴉色は、
ああ、といった表情をする。

「すみません、今日は酷く存在が曖昧でして。驚かせてしまいましたね」
「否、構わないよ。もう大分慣れたつもりだ」
「お優しい方だ」

中性的、しかしどちらかと問われれば女性的な魅力の方が強いであろう
端正な面立ちが、ふわりと綻ぶ。

「しかしその優しさ故に、貴方は仮面を被り切れずにいらっしゃる」

白衣は唇のない口を閉ざした儘、視線を古びた床に落とす。

「ウォーカー」

名前を唱えた鴉色が再び、空に揺らいだ。
名を呼ばれた土星頭が視線を正面に戻した時には、鴉色と、
首元に結われたおぼろ月色のリボンが、彼の視界を覆っていた。
太股に体重を感じなかったのは、彼が不確かな存在の仕方をしているからだろう、と思った。

「…誘ってるの?」
「別に、そうなさっても結構ですがね。傷心中の貴方を躯で癒すのも悪くない」
「随分と気丈じゃあないか」
「貴方は、随分と心細げですね」

ソファのスプリングが、軋み声を上げる。
鴉色が、今度はきちんと其処には存在していた。
太股には、それでも未だ人よりは軽すぎる体重が掛かる。

不意に、鴉色の袖口から見える細い指が、白衣の袖口から見える黒い手袋に覆われた、
自分より一廻りも大きい手を捉え、自分の口元へやった。
その儘、手袋の一部を甘噛みして、するりと抜き取った。
見えたのは、否、見えない、向こう側を透かす、異人種の手。

「ジズ、」
「…もう慣れましたよ。何時も貴方は、この手で私に触れる」

愛おしそうに、その見えない手の甲に、そっと自分の唇を添えた。
「貴方に唇が無くとも、この優しい手があります。
貴方がこの手で私に触れる度に、私は貴方の愛情をこの不確かな躯に受けるのです」

再度小さく甲に口付けて、鴉色は土星頭の瞳を見据えた。
鴉色よりも更に深い哀色の瞳で、真っ直ぐに見つめた。

「隠しきれない不安など、最初から隠さなければ良い。
心配せずとも、私は貴方を、きちんと愛しています。何より愛おしく思っています」

艶めかしく、甲に舌を這わせてみた。透明な手に、透明な唾液がてらてらと残った。
調子に乗って指を軽くくわえたら、制止を掛ける様に名前を呼ばれる。

「…、ジズ、」
「まだ何かご不満でも?」
「そうじゃなくって、」

話している間にも鴉色は桃色の舌を指に絡め、唾液で濡らす。
彼は、指も性感帯であることを重々に知っていた。

「、あの、それ」
「疼くでしょう?奥底が」
「確信犯…」
「何を今更」

鴉色はその妖艶さを含んだ微笑を浮かべた儘、またも視界から姿を失えた。

背後から、囁く様に。

「昼間はどうも安定しなさ過ぎる様です。続きは夜半にでもいらして下されば及びましょう。
お一人が淋しい様でしたら、私は寝室にて眠っていますから、傍に居て下さって構いません」

余程安定しないのか、声まで透き通って聞こえた。
首を傾げて後ろを見やるも、最早何も映らない。
くすくすと忍び笑いだけが耳元に障る。

「愛していますよ。愛しき哲学者」

そして忍び笑いも、虚空に消え失せた。


「…絆されてるなぁ」

一人呟いて吐き出した言葉と溜め息も、混ざってどこかへ融けてしまった。




fin.