薔薇紙巻





むせかへるは薔薇のかほり

「うわぁ何これ」

街中の自販機でパッケージ買いしたは良いが、些か、失敗した感が否めない。
銜えたまま火を点けて瞬間、鼻腔を掠める、どころか五臓六腑まで沁み入りそう、な

薔薇
薔薇
薔薇
薔薇
薔薇

「吸えたものじゃあ無い、ね」

箱ごと棄てようか否か迷ったところで、然し一本だけ吸って、
と云うのは買われた煙草の方も堪ったものでは無かろう、と思い留まり
では誰かに献上しようか、と思案する。

(神様はー…灰にするのだろう、な)
彼は何時とて、掃除人の前に現れる度に手持ちのそれらを光る灰にしてしまうのだ。
(ユーリ…は、嫌煙家だものね)
何時ぞや、勝手に禁煙を破って叱咤された記憶を蘇らせる。
(狗君…噎せそう)
これだから若造は、と一瞬至極年老いた思考回路を回して仕舞った自分に嫌気が差した。

「そもそもどう見てもその銘柄、女性向けだと思うのですが」




…吃驚した。

「ねェ、お願いだから気配無くして現れないで、よ」
「気配なんて足枷、生きるモノだけが持つ病染みたものでしょう。
そんなもの、持ちたくても持てませんし、献上されたとてお断り致しますよ」

お決まりの、回りくどく婉曲極まりない毒を並べてから、紳士は漸く腰を折る。

「ボナセーラ、スマイル」
「未だ日も暮れていないのだけれど」
「おや、御存じ無いのですか?イタリアでは昼食後からは今晩は、に当たるのですよ」

そんなもの知ったことでは、無い。
そもそもの此の紳士、ベネツィア出身とか嘯きながら、大らかさの欠片も有りはしないのだ。
節操が無い、のは相当していようが。

(被れイタリア紳士め!)

胸の内で毒付いて、銜えたままの紙巻きを大きく吸い込んだところで、
自分が未だそれを吸っていたことを思い出す。

「…鳥渡、品の無い芳香ですね。此処まで来ますと」
「でしょう。完全に失敗だよ。あーあ、僕の眼も衰えたのか知らん」

一応一本位は最後まで吸ってやろうと、緩く唇に充てる。
舐めてみれば、どうやらご丁寧にフィルターまで薔薇のお味付きらしい。
苦くも甘い、娼婦の唇の様だ、と率直に感じた。

「処で娼館通いの紳士様」
「冗談が過ぎますよ、スマイル」
「おや、君のことだから僕を失った故の飢えに駆られて、
新しいメインディッシュこさえてるとばかり思ってたのだけれど」
「人を性欲魔の様な言い回しをしないで下さいませんか」
「だって君は其れ其のモノでしょう?」

可笑しくて堪らない、と云った風に、ひひひ、と肩を揺らして笑う。
どうやらその笑い方が、紳士は何時とて、気に喰わぬらしいが。

「スマイル」
「なァに?」
「私を怒らせるとは、良いご身分ですねぇ」

右半分を覆う仮面の眼が、嘲笑った、ように見えた。
恐らくは、この眩暈するような、噎せ返る薔薇の紫煙の所為であろう、と己に言い聞かせて
感情が読み取れる方の左側を見れば、張り付いた微笑み。の裏の、狂気。
走った悪寒は、ニコチンの引き起こす悪寒戦慄症状、では、無かろう。

(厄日、か)

どうやら今日はとことんついていないらしい。
女物の紫煙を買った挙句に、変態紳士と街頭で鉢合わせ、だ。

「丁度良い。先日シチリアから上物の茶葉が届いた処でしてね」
「…此れ一箱あげるからさァ、許してくれたりしないか知ら」
「御冗談を。娼婦臭いのは、貴方で十分ですよ」

(僕が何時娼婦に成り下がった、と?)

「お、や。成り下がった、では無く、男娼からベーシストに成り上がったのでしょう?
幽霊と吸血鬼を梯子して、ね」
「…ジズ」
「失礼。言葉の戯れが過ぎたようですね」
「全くだよ。イタリア人は口が軽すぎる」
「貴方が、悪いのでしょう」

そんな風に、玩びたくなる貴方が、ね。と、
底の見えない漆黒の眼を細めて、心底愉しそうに嘲笑う、紳士。

(僕は何時まで、この男の狂気から逃げ回らねばならないのだろうか)

厭な物思いに耽る僕の視界の端で、闇色のマントの裾が優雅に翻った。
如何にも紳士、といった感じを受ける手袋に包まれし手が、僕の骨骨しく蒼い手を取る。

「苦い煙草はね、上質の珈琲と嗜むと、良いお味になるのですよ」
「でも届いたのは紅茶でしょう?」
「では事前に珈琲、事後に紅茶、で」

そんなに長居させる気なのだろうか、この変態。

「何なら夜のお供にモルドワインもお付けしますが」
「丁重にお断りさせて戴くよ。朝帰りしたらユーリに何されるか分ったもんじゃあ無い」
「ご尤もで」

何時の間にやら日が堕ちたのだろう、店頭のイルミネイションが目に悪く瞬いていた。
年明け近きこの時期は、日の堕ちる速度も嫌いだが、
何よりこの深紅と深緑と電飾のオンパレードが気に入らないことこの上ない。

(くらくらする)

薔薇の残りがの所為か、視覚に与えられる眩し過ぎる刺激の所為か。
と、不意に視界が黒に覆われた。

「…紳士?」
「眩しいのでしょう?ならそう仰って下されば良いでしょうに」
「別、に。そんな女々しいものじゃあ、無いよ」
「嘘仰い」

彼自身に体温は無い、が、僕自身の体温が分厚いマントに跳ね返って、酷く暖かかった。

「煙草」
「うん?」
「先程の。不要でしたら預かっておきましょうか?」
「…うん、お願い。リデルちゃんにでもプレゼントしてよ」
「紳士たるもの、幼き淑女に、然も開封済みの紙巻きなんて奨めませんよ」
「じゃあ何で」
「吸えば、貴方の代わりに成りますから」
「僕は薔薇かい?」
「否、然し、其れはとても、貴方らしい」
「…良く、解らないよ」

解らなくて良い、と紳士は緩くほくそ笑む。
其れは先程のとは打って変わって、とても温かく、影の在る笑みだった。

「ジズは、女々しいね。とても」
「残念ながら、自負する程度には存じ上げておりますよ」
「寂しさ紛れに小姓でも雇えば?」
「何処ぞの蒼き透明人間ならば、幾らでも出しますよ」

冗談に聞こえなかったのは、恐らく耳に付く空々しいキャロルの所為だろう。
冷気に晒された耳朶のピアスホールが、じわりと痛んだ。

「僕はもう、君に買われも飼われもしない、よ。
とうの昔に、値札は外して仕舞ったのだから」
「然様ですか。其れは至極、残念ですね」



(然し買われずとも、こうして時たま持ち帰られては、事実上していることは相違無いのだろう)


そして其れらを総て僕は、冬の冷たき外気の作る、孤独感の所為に仕立て上げるのだ。

(昔も、今も、冬は大嫌いだ)



薔薇の燃え滓は、皮靴の底に張り付いて凍った。




fin.