静寂に溺れる



三日月の、無きに等しい月明かりの中で目を醒ました。
三時頃だったろうか、暗過ぎて自分の醜悪な指先すら朧気にしか見えない視界の中で、
甘美な夢から突き落とされたように不意に起きてしまった。
或いは本当に良い夢を見ていたのかも知れないが、今の僕の脳裏にはその残滓は愚か、
残り香ですら残って居なかったので、何一つとして思い出せはしなかった。

「ユーリ」

急に心細くなって、何の考えも無しに名前を読んだ。
無論、一人部屋であるところのこの部屋に、彼の影はない。
返って来るのは只、静寂の二文字のみである。

其の夜は、余りに静か過ぎた。
まるで、世界が沈黙して仕舞ったかの様に。
全てが僕を置いて、何処か遠くの、手の届かないところへ行って仕舞ったかの様に。
其の内、窓から此方を覗き込んでいる、病的に細い月迄
更に細って消えて仕舞うのではないかと思われる程に。
ただ、ただ、静かだった。
蝙蝠も狼も、幽霊も魔女も、全てメルヒェンという名の僕の空想の中に
帰って仕舞ったのではないか、と泣きたくなる程に。

そう思うと、本当に右の生きている方の眼から甘くない液体が流れ出して来たので、
僕は慌てて枕元の人形(大きな、赤い眼をした兎だった。
遠い昔に、城主が僕に寂しさ紛らわしに、と買い与えてくれたものだった)を抱き絞めて、
懸命に涙を停めようと試みた。
然しそれは僕の意志など知る由も無く、無為な迄に溢れ出しては、
頬を伝って顎を伝って、前髪を濡らして指先を濡らして、
抱き締めたままの人形に染み込んでいくばかりである。
泣いても泣いても、誰も慰めにも抱き締めにも来てくれないので、
挙げ句の果てには、城の中には実は僕一人しか済んでいなくて、
城主の寝台には、紅い硝子玉の眼をした人形が横たわっているのではないか
と思われてきた。
狗の部屋には、茶色い毛並みをした、綿のつまった人形が転がっているのではないか
と思われてきた。
そして生憎、それらを確かめるために寝台を抜け出してあの冷たい石畳の廊下を
一人で駆けるだけの勇気も、僕には無かった。

寂しくて
悲しくて
静かで
苦しくて
狂いそうで

(孤独で死んでしまえるのではないか知らん)

そんな気さえしてきた。

「ジズ」

生きていない情人の名前を読んだ。
然しいつもなら呼ばなくても勝手に沸いて出てくる筈の彼ですら、その夜は現れなかった。
とうとう本当に死にたくなってきて、クローゼットの奥に押し込んだ儘の、
城主のコート(以前彼に隠れてこっそり盗んだものだった)を着て窓から飛び下りようとした。
が、僕の部屋は二階で、死ぬには些か低すぎた。
(今思えば、此れも城主の配慮であったのや喪しれない)
仕方ないので首を吊ろうとしたが、丁度いい太さの縄がなかった。
如何しようもないので薬で死のうとしたが、昨日オーバードーズで大量消費したばかりで、
手持ちのストックは皆無に等しかった。
では彼に首を絞めて貰おうか、と思ったところで、彼が居ないかもしれない
という子供染みた空想による孤独で死に掛けているのであった、ということを思い出した。

「ユーリ」

咽び泣く声は虚しくも虚空に掻き消えるばかりである。

(発狂、しそうだ)
(寂しくて、死にそうだ)
(しにたい)
(しにたい)
(たすけて、だれか)
(ユーリ)

嗚呼、幻覚幻聴とは如何なる時に現れるものなのか。
部屋の窓ガラスが、軋む音がした。
期待しちゃいけない、そう思ってゆっくりと振り向いた、(つもりであった)
視線の先には、矢張り余り期待できる相手ではないけれど、人影があった。

「どうしたのです、そんな可愛らしい泣き顔をなさって」
「…何で呼んだ時に来ないくせに、呼んでない時に来るのさ」

思わず憎まれ口を叩いてしまったが、内心は狂喜乱舞しそうな程に安堵を感じていた。
一人では、なかった。置いて行かれてなど、いなかった。

「私を呼ばれたのですか?」
「呼んでないよ」
「嘘をおっしゃい」
「それ以上言ったら追い返すよ」

では黙っていれば今日は追い返さないのですか、という皮肉など聞こえなかった。
其れ程に、救われてしまったのだ。

「如何したのですか?貴方らしくもない」

余計なお世話だよ、と云おうとした、筈なのに、零れたのは言葉ではなくて涙だった。
訝しんだ彼が窓のそばを離れ此方に近づいてきたが、距離をとる気もなかった。

「さみしくて、しにそうなんだ」

幽霊は何も言わなかった。ただその闇色のマントで、黙って僕を頭からすっぽりと包み込んだ。

「幸せだったものは実はみんな夢で、僕を愛してくれた彼は実は人形で、
この世界には僕と繋がっている人は誰一人いなくて、
僕だけ置いて行かれたのかと思ったんだ」

独白しながら、実は今僕を抱き締めている幽霊すら贋物か、
或いは全て彼の見せた幻想なのではないかと危惧したが、それは要らぬ杞憂であった。

「確かめに行けば宜しいでしょうに」
「こわいんだ」
「抱いて紛らわせて差し上げましょうか?」
「…」

事も無げにくすくすと笑いながら、人形の髪をなでるのと同じように、僕の頭をなでる。
大分前から気づいていたけれど、おそらく彼の僕に対する固執は、
愛情とか恋情とか言う陳腐なものではなくて、人形や作品といった、
彼の所有物に対する独占欲なのだろうと思う。
そしてそれゆえに、ほぼ無条件に、優しい、見返りを求めない愛情であるということも。

「君は優しいね」

素直に云ってみた。

「寝言は寝てお云いなさい。さもなくば人形にして仕舞いますよ」

照れ隠しとしか思えなかった。

「ねぇ、本当に彼が僕より先に死んだら、君の人形になってあげるよ」
「気の遠くなるような話ですね」
「ウン。待てるかい?」
「何を今更」
「やはり君は、優しいよ」

そんなことを云っている内に、日が昇った。
時は止まってなどいなかったし、誰も彼も生きていた。
きっともう数時間もすれば、キッチンから物音がして、
臆病なノックと共に狗が起こしにきてくれるだろう。

「もう、平気ですか」
「ウン、もう大丈夫。ありがとう」

珍しく何の抵抗もなく、彼に対して感謝の言葉が出たことに少し驚いたが、
其れは彼も同じであったようで、一瞬すっと目を細めたが、然し何も言わずに踵を返した。
否、離れ際に、変わりましたね、貴方は、と囁かれた、気がしたが

「では、また」

平常過ぎる程に何時も通りの挨拶だった。
左様なら、と言う言葉を、僕が嫌いなことを知っている彼は、何時でもそう云うのだ。
また、と。そして僕も、またね、と返す。
子供染みた、他愛もないことだけれど、其れは何処か、祈りのような気もした。

「うん、またね」

彼が出て行った窓を閉めようとしたら、微かな薔薇の匂いがした。
窓の下の薔薇の木に、大輪の赤薔薇が一つ花開いていた。
僕はその薔薇を丁寧に手折って、部屋の隅にそっと生けてみた。
部屋の中に、僕以外の生命が存在している、と思うと何だか無性に嬉しくて、
また涙が出てしまった。




fin.