Thanatos



「一度、壊れて仕舞えば?」

さも其れが一般的に存在し得る選択肢の様に、茶菓子をカリと音を立てて齧りながら提案された。
そう、何時だって何か非日常茶飯事的なことが起き得るのは、この二人きりの茶会の時だ。
そして其れは何気ない会話から枝分かれしたものであったり、
或いは相手の唐突で突飛なる発言からであったりする。
今回に於いては後者であることは、云わずもがな、であろう。

「…壊れる」

私は今一飲み込み切れなかった彼の言葉を、
今一度きちんと理解する為に口の中で転がすように唱える。

「そう、壊れる」

私の分身は、何が楽しいのやら嬉しそうに仮面に覆われていない方の眼を細めて、繰り返す。
それから手元の齧り掛けの茶菓子を行儀悪く一口でぱくりと口内に収めてしまってから、
同じ柄の其れをハイティ―スタンドから二つほど自分の受け皿に取る。
どうやら其れが気に入ったらしいと見える。

「…お茶菓子、追加の物持って来させましょうか?」

先程の会話の続きを紡ぐ言葉が見つからず、話題を逸らすかの様にそう尋ねれば、

「いえ、良いです。どうせ食すなら小麦粉の塊より貴方を喰したいですから」

と此れもまた理解しかねる言葉で以て返されて仕舞った。
此の人との会話は何処か疲れる、と、頭の隅で感じざるを得ない。
自分との分身とは、どうやら単純に思考回路が同じ存在、と云う訳では無いらしい。
不覚ながら、こんな言葉のキャッチボールが成り立たぬ相手と会話する位ならば
躁鬱病患者の透明人間か、変態耽美派の吸血鬼と同席する方が幾分か楽だ、と思った。

(早く消えて下されば良いのに)

神出鬼没とは良く云ったもので、彼は正しく其れなる存在であった。
気が付けば茶席に座り、気が付けばティーカップの中身と、銀皿の上の茶菓子と共に消えている。
いつかは茶会の化身なのかと思い暫く茶会を止めてみたこともあったが、
その甲斐も虚しく、彼は中庭の外套の上に腰かけて悠々と読書を嗜んでいた。

(不可解)

その一言に尽きるだろう。

「ジズ」
「……嗚呼、はい?」

未だ居たのか、と(表情にこそ出さなかったが)思い顔を上げれば、彼は相席には座っておらず
では何処かと首を回せば、私の視線が行き届かぬ所、つまりは私の右手側に、彼は立っていた。

「遊戯びましょ」

(…呆れた)

「…もうお茶は飽きられたのですか?」
「紅茶で枯渇は潤いませんから、ね」

肯定とも否定ともつかぬ返事を零して、彼は笑う。
私には、何故彼が意味も無く笑うのか、理解出来なかった。

「…喉が渇いているのでしたら、お水を飲まれれば宜しいでしょうに」
「渇いているのは、物理的な其れじゃあないのですよ」

また笑う。
些か品の無いと感じられる、人によっては不快感も生まれよう
そんな微笑。否、嘲笑と微笑の間、だろうか。

私と同じ体を持ち合わせていながら、違う笑み。
少なくとも私は、あのように笑ったことは、無い。

「先程から、貴方私の誘いに一つも乗ってくれないんですもの」
「誘い、ですか」

生憎そのような物を受けた記憶は、
と云い掛けたところで、開きかけた唇を人差し指で止められた。

「壊れ、喰し、遊戯び、潤す。此れ如何に?」

(訳が、解らない)

恐らくまた例によって此方の思考を読んだのだろう、彼の笑いが深まった。
唇に当てられた指が、無防備な口腔内に差し込まれる。
舌先に感じる、茶菓子の甘い其れ、が

「融け合いましょ?」

漆黒の仮面に穿たれた穴から覗く、狂気じみた血色の瞳を、見た

瞬間、喉に異物を感じて、眼を見開く。
指を喉の奥まで挿入されていた。

「、ぇ…ぐ…っ」

直ぐに指は引き抜かれたものの、余程奥まで入れられたのだろう、
生理的に溢れた涙が眼尻に溜まった。
恨めし気に睨みつければ、尚深まる、気色の悪い微笑み。

「何をなさる、ん」
「何って、前戯に決まっているでしょ」

にっこりと微笑んでは、唾液で濡れた指を気に留めることも無く、此方の首を

強く、絞める。

「っ………!」

突然の予想し得ない行動と、急激な圧迫とに再度驚愕し眼を見開いた。
只でさえ未だ堰き込んでいたにも拘らず塞がれた気道と、
心の臓へ戻ることを許されず頚静脈内で堰き止められた血液に
脳内信号は一気に警告の色を点滅させる。
抗議の意を示そうにも当然ながら声を出すことすら叶わず、
力の入らない手で以て我が首を絞める其の腕に縋りつくしか出来ない。
如何に一度死んだ幽霊なれど、血も酸素も通った此の仮の肉体、
稼動するのに必要な要素を断たれれば、人間と同様死に至る
とは云わぬが、臨死体験位容易く出来て仕舞う。
(云いかえれば何度とて死を見れる、と)

死と云う其の言葉が脳裏を過った、瞬間、
全身に、えも云われぬ恐怖が走った。

(在り得ない)

死に乍ら生き、死に最も近しき闇を司っていながら、私は死に恐怖している。
今一度死ぬ事を、恐れている。
その事実に、唖然とした私は圧迫され続けている現状も忘れ、
抵抗していた手を力無く地に落とした。

「おやァ、もうお終いですか」

少し詰まらなさそうな声が頭上から降って来る。
未だ気管を解放されていないが故に返答の無い私に飽きたのか、
まるで人形を扱うかの様に軽々と体ごと首を持ち上げてから、床に落とした。
そして私は酸素を欠いた脳で以て、その余りに平然として行われた乱暴も
床に落とされた折の痛みすらも、恰も他人事のように感じとる。
解放された筈の気管は、然し呼吸する気も失せた私によって、未だ酸素を補給しようとしない。
(血管ばかりは残念ながら私の意志で動かすことはかなわないので、
勝手に頚静脈を伝って首から下へ流れて行った)

「…漸く、気付いたようですね」

一般的な女性よりも長いであろう睫毛(とは云え遺憾乍ら私も同じモノを持ち合わせているのだが)
を伏せて、幸せそうにほくそ笑む、白き幻影。
何時から、彼は気付いていたのだろう。
彼と同じ存在で在り乍ら、無意識下で死を未だ恐れていた私、に。

「ほうら、壊れた」
「っ……ぁ」

緩慢な動作で、床に押し倒されるも、抵抗すると云う選択肢は蒸発していて、
私の無力な四肢は背骨の痛みと共に、絨毯の上へ縫い付けられて仕舞った。

「嗚呼なんて可愛そうな我が片割れ。死を超えて、暗闇を謳い纏う存在でありながら、
過ぎた死を未だその先に見続ける。哀れ、憐れ、うふふふふ」

全てが可笑しくて堪らない、と云った風に満面の笑みを湛える彼に、
床に押さえ付けられた儘の背筋に怖気が走った。
彼は本当に、私の片割れなのだろうか。
或いは、私の片方では無く、裏側なのやも知れない。私の持ち得ない、仮面の下の、私。

「…お黙りなさ、い」

耐えかねて、嫌悪の念を含んだ声と共に睨みつけるも、彼の笑みは深まるばかり。

「何故死が怖いのです?貴方には無いものなのに?一度は克服したものなのに?」
「黙って、下さい…」

未だに力の入らない躯は、幾ら身を捩ろうとせども軋むばかりで、体制が変わる気配は無い。
相手は全く力を入れていない風にも関わらず、
ギリ、と悲鳴を上げた両肩に、思わず片眉を寄せる。
然しそんな私は何処吹く風、彼は歌うように続ける。

「ねぇ、タナトスを棄てれば良いんですよ、ジズ。
どちらか一方を取れば、もう一方は自然消滅。ほら、素敵でしょ?」
「タナトスと、エロス?生を失った此の私が、ですか?」

タナトスとエロス
死と生

死を通り越し、生を見失った私には、どちらも無いモノ

「無論得られはしませんよ。只、欲するだけです」

欲する
欲望
デザイ ア

「何を、仰りたいのですか」

意図が掴めない。何時ものことだ。
然し此の体勢、状況は何時もでは無い。
其れが私の思考回路に、警報を鳴らす。
如何にか、打開せねば、と。

「分かりませんか?」
「分かりませんよ」
「分かってる癖に」

嘲笑った、彼の眼には、何の感情も映っていなかった。
恐らく私の姿さえ、映ってなどいないのだろう。

「服従なさい。貴方の裏側たる、此の私に」








壊れたのは、さて彼の理性か、或いは私の中の何処かにある、鍵穴か
狂った夜は、終わらない







good bye...