甘い罠
「厭じゃないの?」
「何が、」
云って振り向くと、皿一杯の苺を片手に寝台に座っている透明人間が視界に入った。
如何云う訳かその蒼い肢体に纏っているのは、真っ黒いレースとサテンリボンに覆われた
至極かさばるドレスと、揃いのヘッドドレスに靴下だった。
揺れる黒いフリルが、彼の蒼を酷く妖艶に見せていて、まるで娼婦だ、と思った。
が、敢えてそこには触れずに、会話を促すように譜面を綴っていた万年筆を置く。
「僕を抱くの、厭じゃあないの?」
「如何してそんなことを云い出す」
「別に、気になっただけ。だって、厭々抱かれても嬉しくないでしょう」
真っ赤に熟れた苺を指先で摘んで、自分の唇にふに、と押し付ける。
「厭じゃあ、ないの?」
再び同じ問い掛けを投げて、彼はその紅い粒を口に放り込む。
だだっ広い寝室内で咀嚼音だけが鼓膜を震わせる。
「答えて」
「愚問だな」
溜息を吐いて椅子から重い腰を上げる。
今まで気付かなかったが、もうとうに日は落ち始めていた。
落日の西日に沁みる目を細めながら、彼の正面へと脚を運ぶ。
間近で見下ろすと、ご丁寧に青紫のグロスまで塗られているのが判った。
(何がしたいんだか)
苺の皿を、爪を黒く塗った手から奪い、手近なテーブルに置く。
とても瑞々しく甘そうな苺だったが、如何しても食べる気にはなれず
そのままテーブルから離れ彼を見下すような位置に立つ。
「愚問、じゃあ解らないよ。ちゃんと答えて」
「…煩い」
力任せに押し倒し、その衝撃で怯んだ針金のような隈躯に覆い被さる体位で素早く唇を塞いだ。
同時に胸元のコルセット風に編まれた紐リボンを緩め、肩口を露出させる。
「んぅ」
厭がる素振りを微塵も見せない彼に些か苛立ちを覚える。
(つまらん)
恐らく更なる深い口付けを期待していたであろう彼の唇から離れ、そのさらけ出された首筋に埋める。
若干なりとも予想外である刺激に、密着状態の此方の脚へ彼の脚が小さく震えた振動が伝わる。
それが無性に可笑しくて、埋めた侭の面を緩ませる。
「笑ったでしょう」
「だってお前、それだけ気丈にしておいて鋭敏過ぎるだろう」
「悪い?」
むくれたように顔を逸らす。
年齢と服装に似つかぬその稚拙とも取れる仕種に、またも苦笑いを重ねる。
「いや、」
ちぅ、と態とらしく音を立てて蒼皮の薄い首筋を吸う。
蒼と重なって紅紫になった鬱血痕が酷く厭らしく見えて、背筋がぞわりと粟立った。
流れることのない体内の血液が戦慄く。
「ユーリ、」
窘める様に呼ばれてはたと我に還った。
見れば、スマイルの紅い隻眼が此方を見つめていた。
「飲みたいなら、飲めばいいのに」
「・・・・・」
平素に笑って自ら首筋をさらけ出す。
「死なない程度なら、飲んでも良いよ」
「死ぬぞ」
「殺させないよ。未だ」
じゃあいつなら殺されるんだ、とは問えなかった。
ただ、糸一本で繋がっているだけの理性を保つことしか出来なかった。
(自殺行為じゃあないか)
目眩がした。
「・・・・・・」
「まあでも一つ云わせて戴くなら、」
にやりと口の端を引き上げて、かぷ、と彼は徐に自分の指先を噛んだ。
破られた蒼い皮膚から滲み出た血液は、
「僕は透明人間であるが故に、ヘモグロビンの血色素だけが欠如してる。
鬱血だって、僕の場合炎症を起こして紅くなる訳で、静動脈の増加とか関係無いの」
まるで何度も読み返した教科書のごとく淀み無く解説された。
その蒼い躯から滴る血液、否、体液と呼んだ方が相応しい気がしたそれは、
無色透明だった。
「これでも未だ飲みたいなら、どうぞ召し上がれ」
「・・・・・・・・・」
予想出来なかった訳では、無い。
予想していなかっただけだ。
が。
食欲と性欲が一気に萎えた。
fin.